2012年3月31日土曜日

第28回 死と向き合って気づいた安らぎの場所~それは『家族』 動物王国タンザニアでサファリツアー会社を経営する大串安子さん - 旅するチカラ ファイブスタークラブ


大串さんと長男の光(ひかり)くん(2011年)

幼い頃から夢見ていたアフリカの大地。野生動物が生きる様を見つめながら自分も生きて行きたい。一人の女性がその夢にたどり着くまでには、あまりにも多くの苛酷な試練を乗り越えなければならなった。現在、野生動物の楽園であるアフリカのタンザニアに家族と共に暮らしながらサファリツアーの会社を営む大串安子さん。彼女が自分の夢を実現するまでに通らなければならなかった、その過酷な道とはどんなものだったのか。そして、仕事への思い、「夢とは何か」についても語っていただいた。


<プロフィール>

鹿児島県鹿児島市生まれ。
鹿児島大学付属小学校、同付属中学校卒業。
鹿児島県立鶴丸高等学校卒業後、鹿児島大学水産学部入学。
鹿児島大学水産学部中退後、ハワイ州立大学で動物学を専攻。
2年間のフリーターを過ごした後、JICAの海外青年協力隊としてニジェールにて感染症対策のボランティアに2年間参加。
一旦帰国後、タンザニアにある野生動物管理大学へ進学。そして結婚。
現在、タンザニア在住。
現地で結婚した夫と共にサファリツアーの会社「キリアクティブ・アンド・サファリ」を設立。今では、日本語を含め5つの言語を流暢に操る。

<キリアクティブ・アンド・サファリ>
手続き上の遅れがあり、現在、以下の旧社名で営業が行われています。準備が整い次第、社名が「キリアクティブ・アンド・サファリ」に変更される予定です。

アクティブ・キリトップ&サファリ
http://www.activekilitopandsafaris.com/
※大串さんの手による日本語ページとなっています。(もちろん英語ページもあります)

ご主人のムサフィリさん、光くん、次男の泉(オアシス)くん(2010年)
※泉とかいて「オアシス」と読むのだそうです。

-現在、大串さんはタンザニアにお住まいです。ハワイの大学を卒業されたと伺ったのですが、その意外な取り合わせにたいへん興味を持ちました。その辺のいきさつからお話を聞かせていただけますか。

大串さん:はい。鹿児島県鹿児島市で生まれ育って地元の鶴丸高校を卒業後に鹿児島大学の水産学部に入学しました。でも3ヶ月ほどで自主退学してハワイ州立大学に入り直したのです。というのも、私は小さい頃から海が大好きで、ずっと海の上で過ごしていたいっていう夢があったのです。鹿児島大学の水産学部は大きな実習船を持っていて、6ヶ月間ほどその船で過ごしながら実習できると聞いていたので水産学部を志望したのです。ところが女性はダメだということが分かりました。その船には女性用のトイレもお風呂もないので、女性は船に乗せられないということでした。だったら、ここにいる必要はないと思ったのが一つの理由です。もう一つは入学後の飲み会が多かった(笑)。それはそれで楽しいのですが、親にな� ��らかの理由を言ってお酒を飲むということに抵抗がありました。両親が一生懸命に働いたお金で飲んだくれていていいのかなって・・・。そういうことから鹿児島大学の水産学部を退学して、大好きな動物のことを勉強しようとハワイ州立大学の動物学部に入り直すことにしたのです。

-ハワイの大学ですから英語力は必須ですよね。

大串さん:はい。その通りです。だから、ハワイ大学に入り直すと決めてから、大学に行くフリをして図書館に通って朝から晩まで英語の勉強をしていました。そのうちに大学に行っていないことが親にバレてしまって・・・。父親が鹿児島大学の教授をしていたもので、教授仲間から「お宅の娘さん、学校来ていませんよ」って耳に入ったらしいのです。もちろん凄く怒られてしまいました(笑)。でも自分の思いと計画を説明して、なんとかハワイ大学を受け直すことを承諾してもらいました。

-やはり外国の学校となると、日本とは様々な面でシステムが違いますし、学費とか生活費の面とか何かとたいへんだったのではないですか?

大串さん:はい、大変でしたよ。せめて学費は自分でなんとかしようと思ってスカラシップを利用しました。セメスターの試験結果が定められた基準を上回ると、フルスカラシップという、まったく学費を払わなくてもいい制度があって、それを卒業まで取り続けました。

スカラシップとは?
奨学金。または、奨学金を受ける資格のこと。
セメスターとは?
2学期制の意味。学校の1年間の過程を半年ごとの前期・後期に分けて行う制度である。


大串さんが憧れたアフリカの大地を眺める
弊社スタッフ本山(セレンゲティ国立公園)

-それは凄いですね。それも、とりまく環境が全で英語の世界で。

大串さん:実は私が6歳の頃、1年間アメリカに滞在していたことがあって、それで英会話はなんとかなると思っていたんです。ほら、小さい頃って何も考えずに英語で会話していたりするじゃないですか。だから自分はある程度しゃべることができると勝手に思いこんでいたのです。なのでハワイに渡るときも英会話の本一冊たりとも持参しませんでした。ところが、実際にハワイに渡ってみると挨拶一つできない。それからはもう必死でしたね。講義も毎日テープに録って何十回って聞きなおして自分でノート作る。1日のリーディングの宿題が250ページ以上。1つのラインに10以上の知らない単語をひたすら寝ずに辞書でひきつづけるという生活でした。

-フルスカラシップを取り続けたということは優秀な成績だったわけですね。

大串さん:えぇ、何とか。ハワイ州を含めてアメリカ全土の大学で、上位3%に入る優秀な学生にオーナーオブスチューデントという称号が与えられるのですが、卒業時にはそれをいただくことができました。とにかくフルスカラシップがもらえなかったら夢を捨てて日本に帰らなきゃいけないと思っていたので、崖っぷちに立たされている心境でいつもがんばっていました。

-卒業後はどうされたのですか?

大串さん:日本に帰って2年間フリーターをやっていました(笑)。予定としてはアメリカの獣医学部に行きたかったのですが経済的な理由もあってそれを断念。それでいろんなことを知りたい、いろんな人と関われる仕事がしたいと思ってバイトのかけ持ちをしていました。そう思ったのは自分がハワイにいた時に自分の国である日本のことを何も知らないということに気づいたのがきっかけです。ハワイにいる時から日本舞踊、三味線、日本文学などを習ったりして、なるべく日本のことを知ろうとしていました。いずれ日本に帰ったら、いろんな人たちと接してみようと思っていたんです。テレビ局の方や学校関係の方たちなど、さまざまな分野の人たちと接する機会ができて「あっ、こういう考え方もあるんだ」「今の日本� �てこういうところなんだ」って勉強になりました。

"砂漠の王国"ニジェール
雨が降る前は世界が地獄のように真っ赤に染まる


人々の命を守るための大切な集会
村を巡回してマラリアの保健員を養成する講習会を行う大串さん

-フリーターを経験された後は?


コロラド州で草を購入する場所

大串さん:JICAの青年協力隊に入って、マラリア感染症対策のボランティアとして西アフリカのニジェールに派遣されることになりました。ニジェールというところは国土が日本の4倍もあるのに人が住んでいる場所は国土の3分の1なのです。残りはすべてサハラ砂漠です。昼の気温は日なただと60度ぐらいまで上がり、夜も40度をきりません。水にも恵まれないところで食べ物も最低限のものしかありません。アフリカでも最貧国とされる国なのです。小さいころからアフリカに憧れていたものの、アフリカは1つという間違ったイメージがあり(苦笑)、本当はタンザニアのような動物王国に行きたいと思っていたのですが、アフリカ行きを希望したら砂漠の王国ニジェールに送られることになってしまいました(笑)。

こんなところからも水を汲む


見渡す限り赤い乾いた大地
これがニジェールの通常の景色
普段の生活の中でこんな道を何十キロも歩く


こんな小さな車に40人以上乗ってガタガタ道を移動
次の日には体中あざだらけ・・・

-タンザニアに行きたかったというのは、何か理由があったのですか?

大串さん: 私は小さい頃から野生動物が大好きで、憧れていたのがタンザニアでした。というのもタンザニアは野生動物の王国で、ゴンベナショナルパークには30年以上もチンパンジーの研究をされているジェーン・グドール博士という尊敬する博士もいらっしゃいます。だから何としてでもタンザニアに足を踏み入れたいと思っていました。その想いはハワイで動物学を学んだことでどんどん強くなっていきました。でも送られたのは野性動物の王国じゃなくて砂漠の王国だった(笑)。

普段は凛々しいラクダも暑さでぐったり


大串さんが生活したニジェールの家


医療施設から遠い村をバイクで巡回する大串さん

-ニジェールではどのような生活をしていらっしゃいましたか?

大串さん:大変を超えて、いきなり死にそうになりました。私が派遣された場所はニジェールでもそれまで外国人が入ったこともない場所でした。本当はいろんな調査をした後に送られるのですが、オフィスも状況を把握しないまま派遣されることになったのです。行き方も良く分からない、泊まる場所も分からないという状況で・・・。夕方の5時頃、ほぼ1日かかって現地に到着しました。そこで、私を歓迎してくれる飲み物を出されたんですよ。もちろん、後で知ることになったのですが、それは主食であるヒエとヤギの乳を3日寝かせたものを混ぜた飲み物で、ニジェールでのウェルカムドリンクなんです。実はヤギの乳ってかなり雑菌が多いんです。得体の知れないものではあったのですが、せっかくウェルカムしてくれるの で飲まないわけにはいかないなと思って飲んだら、一発で食中毒です。汚い話ですが、上からはゲーゲー吐いて下からは垂れ流しのひどい下痢です。熱は40度を超える高熱。しかも、当時、マラリアの中でも90%が死に至るという熱帯熱マラリアが猛威をふるっていたので、蚊帳をかぶって横になっているしかない。激しい下痢と嘔吐は1週間も続きました。しかも私が死にそうになって苦しんでいるというのに、20匹も30匹もハエを連れたニジェール人たちが絶えず20人、30人と目の前にいるんです。それもほとんど24時間座りっぱなし。私が「もういいかげんにして!」って知ってる限りの言葉を使って叫んでも、また10分後にはニコニコ笑顔で戻ってくるんです。「何なんだ、この人たちは!!」って思いました。実は、それには心温まる� �由があったのですが・・・。

とにかくオフィスに連絡をつける手段もなく、嘔吐と下痢で極度の脱水状態。水さえ飲んでも吐くという状況。もう、どうすることもできない。このまま死ぬんだなって思いました。

近所の子供たちと


赤ちゃんが生まれたお祝いの会「命名式」で近所の人たちと
村の人々全員が知り合い

-自然治癒を待つしかなかったのですか?

大串さん:待っていたら本当に死んでいたと思います。何とかしないといけないと思った私は、動けない体に鞭打ってオフィスに連絡を取ろうとしました。そのためにはバイクをアレンジしてもらって電話交換手のいるところまで行ってもらったんです。やっとの思いでオフィスに連絡をつけて、スタッフの方が迎えに来てくれるものだと思っていたら、自分で何とかしなさいと冷たい返事。でも、生きるにはそれしか方法はないんだと思って、最後の力を振り絞り病人にはあまりにも辛すぎるがたがた道を走る車に乗り、なんとか首都にある病院にたどり着きました。3回乗り換え、全工程12~13時間かかりました。実はそれまで何も食べられなかったのですが、朦朧としながらも、唯一、首都・ニアメで購入して持っていたビスケ� ��トのクリームをひたすら舐めていたようなんです。自分ではまったく意識していなかったのですが・・・。お医者さんから「そのビスケットクリームの糖分がなければ確実に死んでいただろう」って言われました。

主食の植物・ミレットとヤギの乳で
お客さんをもてなすフラを作っているところ


いつもハウサ語を教えてくれていた近所の子供たちと


雨季のニジェールは見違えるほど緑がいっぱい


1年で数週間だけ訪れるトマトの季節

-ニジェールでは何年過ごされたのですか?

大串さん:2年間です。死ぬ思いをした後に再び任地に戻るのはすごく恐かったです。また同じことが起こるんじゃないかと思ってしまいました。でも、タンザニアに行きたいという夢があったので頑張ることにしました。でも、戻ってよかったと思います。その後も慣れない土地で戸惑うことばかりでしたし、何度も病気になりましたが、ニジェールの人たちに救われました。ニジェールって環境は苛酷で食べ物もタマネギしかないような乏しい国なのですが、人がとにかく前向きなんです。食べ物もないのに何も辛いことがないかのように、いつも、ガハハって笑って前を向いている。自分たちが辛い思いをしていながらも本当に他人に優しいんです。私が食中毒で死にそうになっている時に、20人30人の人たちが私のところに来� ��いたのも、実は、そんな優しさからだったんです。日本人の感覚だったら、病人はそっとしておいてゆっくり休ませてあげるのですが、ニジェール人は違う。ニジェールでは明日があるかどうかも分からない世界です。明日、その病人が生きているかどうか分からないので、人が病気だって知ったら、集まって最後を看取ってあげようとするんです。だから私が死にそうになっていた時に、みんなが集まっていたのは、そういった思いやりからだったんです。ひょっこり来た外人でも死にそうになっていたら、家族のように側にいてくれる思いやりだったことを知った時には感動しましたね。

大親友だったハムサトゥと(ラマダン明けのお祭りにて)


大親友の家族が勢揃い

-短期間の滞在だけではわからいことですね。

大串さん:任期を終え、ニジェールから日本への帰国途上にタンザニアに寄ろうと思っていたのですが、帰路変更で使える残存期間が少なかったので、とりあえず日本に帰ることにしました。


インドは、自由になった方法

-では、その後、どのような経緯でタンザニアへ?

大串さん:その時は、とりあえず日本に帰ってとんぼ返りでタンザニアに行ってみようと思っていたんですが、私がニジェールに行っている間に、母が録画していたあるTV番組があって、それを見て少し考えが変わりました。番組はある俳優がナイロビにある象の孤児院を紹介するものだったのですが、どういうわけか、3 分ほどタンザニアのモシの町にある「野生動物管理大学」の紹介が入っていたんです。それを見た時に「これだ!」って思いました。観光ビザで数ヶ月タンザニアに行くんじゃなくて、じっくり腰をすえてタンザニアを知りたいと考えるようになりました。そこで、インターネットでその大学にどういうコースがあるのかを調べてすぐに応募しました。するとOKが出て、遂に、タンザニアに足を踏み入れる準備が整いました。

野生動物管理大学(タンザニア・モシ)


野生動物管理大学からのキリマンジャロの絶景

-また、いろいろと準備がたいへんだったのでしょうね。それと、「野生動物管理大学」ではどのようなことを学ぶのですか?

大串さん:日本に戻っていたのは2ヶ月ほどです。ニジェールから日本に帰ったのが5月でした。大学のクラスが始まるのは8月からだったので7月の前半にはタンザニアに行きました。その大学は国立公園のレンジャーの養成で有名な学校だったのですが、現在ではその他に、サファリガイドになる人や国立公園のマネージメント関係の仕事に就く人も学べるようになっています。ですから動物の生態から植物の生態、国立公園などのマネージメント、保護問題、ライフル銃の使い方、そしてサバイバルスキルなども勉強します。私がいたクラスは融通の利くクラスで、基準さえ満たせば好きな科目をアレンジできたんです。野生動物の世界を見たかった私はサファリばかりを選び、1年間のうち半年は実習で国立公園を回ってキャン プする生活をしていました。

キリマンジャロ登山実習(クラスメートと私)


土ぼこりで顔まで真っ黒
過酷なサバイバル研修にて
中央に大串さん

-サバイバルスキルっていう実習があるのですか。

大串さん:はい。すごい訓練なんですよ。最初の3日間はコンパスと地図だけを持たされて「こういうところに行きなさい」っていう指示にしたがって歩き続けなければなりません。夜は野宿して、次の日にまた歩き続ける。その3日間が終わると、今度は、キリマンジャロの2200メートルぐらいのところへ連れていかれて単独での3日間のサバイバル実習があります。これが無謀な訓練で、渡されるのは少しの食材とナイフ1本と500mlの水、それにマッチ3本だけなんですよ。動物の生態や行動を学んできたわけだから、それを活かしてみろということなのですが、獣がアタックしてくることだってありえます。まず1本のナイフで木を切って家の骨組みを作るわけですが、縄など縛るものはないので芝生のような草をねじって紐状にして木 を結んで作っていきます。朝の10時頃から家作りを始めて出来たのは夕方の5時頃。もう、手はまめだらけです。高度も高く雨も降るので、ちゃんとカバーも作らないといけません。それだけならまだしも、近くにはヒョウ、象、バッファローなんかもいるので襲われる危険もありますから、いろんな対策も必要です。そして周りにも気を配らないといけない。だからもう必死でした。
でも、本当に楽しかったですよ。家を作り終わりさえすれば、日々の仕事は水汲みと料理のみ。本当に自然の音しかない世界で、ぼーっと自然と一体となる。最高の感覚でした。

-食べ物は何もなく、水はたったの500mlで3日間を過ごすなんて想像できませんよ。

大串さん:料理もしなければならないので500mlで3日も持つわけありませんよね。だから水辺に植生している植物を探すなど、今まで学んだことを活かして水のありそうなところを見つけなければなりません。そして問題なのが火。マッチ3本だとさすがに不安なので、生徒たちの多くは事前にライターを買って下着の中なんかに隠し持っていましたね(笑)。そのサバイバルの3日間が終わると、今度はキリマンジャロ登山が始まるんですよ。普通キリマンジャロ登山というと最低で4泊5日、ルートによっては6泊7日必要なのですが、その実習では1泊3日で登って降りてくる。これはグループでの研修です。初日はひたすら歩き続け高さ50センチくらいしかない洞窟にみんなで雑魚寝して、次の日も歩き続けてキボハットというところ� ��少し休んで、その日の真夜中に頂上に到着です。そして夜を徹して一気に降りてくるという1泊3日の"旅"です。

キリマンジャロの頂上ウフルピークにて


キリマンジャロの氷河に立つ

-お話を聞いただけでもう無理って思ってしまいます。実際はどんな感じだったのでしょう?

大串さん:スタート地点が2000mぐらいのところなので、普通のお客さんが登り始める場所よりは少し高いのですが、それでもかなり苛酷です。キリマンジャロは高さがあるわりには登山テクニックがいらない山です。でも、逆に、初心者の方は高山病になってしまう危険性が高いのでとにかくゆっくりとした日程で高度順応をしながら登ることが大切です。私が挑んだ時はタンザニア人、ケニア人、ウガンダ人、モザンビーク人、白人など70人ほどでチャレンジしたんですが、頂上まで登れたのは12人だけ。特にその時は状況がひどくまつげ一本一本が凍るような寒さ。本当に目の前で身体の大きなゴツイ男たちが高山病にかかっていきました。気が狂ったようになったり、ゲーゲー吐いたり、倒れたりしていくのを見ながら私は頂� ��まで登りました。女性は私だけでした。でもそこで面白いのが、せっかく頑張って登頂したのに、あまりの寒さに誰もカメラを取り出すことが出来なかったのです(苦笑)。「雲海を眺めながら写真を撮るぞ!!」と意気込みバッテリーもフルチャージ。でもみんな手が凍っちゃって誰も指を動かせず、結局他のルートからきた観光客に撮ってもらいました。おまけに視界3mほど(笑)。

-12人のうちの1人なのですか。すごいですね。その強さはどこから来るのでしょう?

大串さん:とにかく負けず嫌いだったから(笑)。私は3人兄弟の真ん中で、上も下も男。だから小さい頃から兄弟ゲンカしてボコスカやられて育ってきました。いつも男子とケンカして殴られるたびに「負けるもんか」って思っていました。殴られてもここで泣いたら自分が負けるって(笑)。それで根性がついたみたいで、負けん気はすごいですよ。


ハンティングサファリの実習

-だからニジェールで死ぬ思いをした時も生き延びることができたんですね?


トリニダードの健康上の問題は何ですか

大串さん:それはあるかもしれませんね。話しは少し戻りますが、ニジェールで食中毒で死にかけた時に人生を振り返って思ったことがあるんです。それまで自分の夢を追い続けて、それが一番大切なものだと思っていたのですが、それが死の直前になると、そんなものどうでもよくなって・・・。「あっ、ここで生き伸びることができたら幸せな家庭が欲しいな」って、すごい平凡なことを思いました。日本から遠く離れたニジェールで意識がもうろうとしている中、自分を育ててくれた家族のことを思い出して「あ~、会いたいな」って。家族を持つって平凡なことかもしれないけど、それってすごく大切な事なのだなって死に目に遭って初めて分かりました。家族がいて、夢があって、その夢が叶えられた時に、いっしょに喜 べあえる家族が必要なんだなって思うようになりました。

大学で知り合った頃のご主人と大串さん(セレンゲティ国立公園)

-大串さんはタンザニアでご結婚されたと伺っています。

大串さん:はい。大学で主人と出会い結婚しました。そして、主人の実家のあるアルーシャに移って新生活を始め、そこで子供を産みました。

-仕事をされるようになるのはその後ですか?

大串さん:そうですね。子供が生まれて9ヶ月ぐらい経った頃に、カナダ人が経営するツアーオペレーターの会社で働くようになりました。ただ日本人と欧米人の感覚は違うじゃないですか。バケーションの長さも違う。それで日本人向けの日本人が楽しめるパッケージを作らなければと思うようになって、ファイブスタークラブさんに連絡してお付き合いが始まりました。

-その会社では何年ぐらい働いたのですか?

大串さん:約2年半ほどです。ボスがカナダ人なので、日本人向けにはこうしたいと思っていてもどうしても意見が違う。そういうもどかしさを感じていました。日本人は英語には馴染みがないので日本語ガイドも必要だと考えていました。ライオンや象を見るだけなら、サファリじゃなくても動物園でも見られる。そうじゃなくて、動物が野生の中でどうやって生きているのか、どう知恵を絞って生活しているのかを知らないとサファリを十分楽しめたとはいえません。そこで日本語ガイドの養成を始めはしたのですが、ボスはその必要性を一時は理解してくれましたが、徐々に日本語ガイドに対する待遇もひどくなり、満足いくものとはなりませんでした。そういうことから、融通の利く日本人のためのツアーを作りたいといつ� �思っていました。

ライオンのママと子供


ヌーのママと赤ちゃん

-その思いが今の会社へと繋がっていくわけですね?

大串さん:はい。2010年の9月に会社を設立しました。前の会社で私が教えていた日本語ガイドの人もついてきてくれて、やっと自分が思う日本人向けのパッケージを作れるようになりました。だから日本語のガイドを希望すれば日本語ガイドがつくし、英語でのコミュニケーションを楽しみたいというお客様には英語ガイドがつきます。スワヒリ語を学びながら、また、英語を学びながらサファリガイドをしてもらうのも楽しいものですよ。

弊社スタッフの本山をゲームドライブ(サファリ観光)
に案内するアブダラさん、ジェームスさんと大串さん

-会社を起ち上げてみての感想は?

大串さん:お陰さまで、ファイブスタークラブさん始め、日本の皆さんのおかげでお客様にも来ていただけますし、協力隊(JICAの青年海外協力隊のこと)上がりなのでタンザニアの協力隊の人たちにも使ってもらっています。また、個人のお客様の利用もあって満足してもらっています。ただ、パッケージを作って「これ、どうぞ」って提供するよりも、お客様1人1人の思いを反映したプラン作りを大切にしています。それは時間のかかる作業ではあるのですが私は大好きです。あるお客様が、お話しをしてくださいました。セレンゲティ国立公園に行くのが夢だった親友がいらっしゃったのですが不幸にも思いを遂げられずにお亡くなりなってしまわれたそうなんです。だからその友だちの代わりにセレンゲティ国立公園を見� �かったとおっしゃって・・・。そういう風に、お客様一人一人がどういう思いを持って何をされたくてタンザニアに来られるかということを分かってプランを立てることでよりそれぞれのお客様に満足していただける旅を提供できるようになると信じています。

大きな口を開けるカバ


縞がとても鮮やかなシマウマ

-大串さんご自身もガイドをされることはあるのですか?

大串さん:今はないです。私は野生動物の世界にいるのが一番幸せで、お客様にもいろいろな動物のことを知ってもらうというのが一番の理想なのですが、子供もいるので母親としてはそういうわけにもいきません。この国では色々子育ての常識も違って、母親である自分が子供たちを守ってあげなければ誰も守ってくれる人はいないので。でも、お客様のご希望に添うパッケージを作っている時は「こういうのが見られるよ」ってイメージしながら頭は一人でサファリに飛んでいるんですよ。

緑豊かな大地に佇む象

-サファリのお仕事をされる上で気をつけていらっしゃることは?

大串さん:動物の行動を学問として学んでいてもいつもそのパターン通りに動いてくれるわけではありませんし、パターンなんてないのかもしれません。動物の状況は季節ごとに毎年、刻々と変わります。だからガイドやドライバーがツアーから帰ってきたら詳細のレポートを書いてもらって、何がどうだったっていう状況を報告してもらっています。そうすることによっていつも最新の情報を把握し、最適なパッケージツアーが作れるようになります。

ドライバー兼日本語ガイドのアブダラさん


日本語ガイドのジェームスさん

-それが大串さんの会社の強みですか?

大串さん:そうですね。やはりちゃんとサファリの状況を把握するということは大切なことだと思っています。もう一つ、強みという点では、やはりレベルの高い日本人向けガイドがいることです。どんなに良いプランを作っても、お客様を連れて回るのはガイドとドライバーです。だから日本からのお客様に快適なツアーを提供できるようにしっかり教育しています。日本語ができるというだけでなく、日本人はどういう人たちなのか、どのようなものが好みなのか、どのようなことを求めているのかといったことも教えています。こうすることで、遥か遠いアフリカにきても日本人がホッとできるような旅を提供することが出来ると信じています。他社も日本語がしゃべれるガイドはいるようですが、しゃべれると言っても「よ うこそ」「大丈夫」などの片言程度で、うちのレベルではありません。もちろん日本語は難しいので、まだまだ足りないところもありますが、それでもかなり頑張っていると思います。

人の気配に気付いてこちらを見るキリン


巨体のバッファロー

-日本からのお客様には大串さんも会われるのですか?


大串さん:もちろんです。初めてアフリカに来られたお客様は、期待も大きいでしょうが、やはり不安も大きいと思うんですよ。だから最初は必ず私がお出迎えしてオリエンテーションをするようにしています。日本人が迎えに来たというだけでも安心感が与えられると思います。それにお客様との出会いもすごく好きです。サファリに来てくれたお客様との出会いを大切にしたいという気持ちもあります。日本に住んでいたら会わなかったであろう人たちと、日本から遥か遠いアフリカでお会いできるっていうのは奇跡みたいなものですからね。私も日本の方たちと話しができる場が持てますし、パワーももらえます。一度、こちらに来られて、会ってすぐに意気投合して、それ以来、親友みたいにになってずっとお付き合いが続 いている方もいるんですよ。

チーターと動物孤児院にて(ケニア・ナイロビ)

-動物が見られる国は他にもあると思うのですが、タンザニアを選ばれた理由は?

大串さん:在学中にケニアにも行って、いろんな動物公園を見て回ったのですが、スケール、広大さがタンザニアとは違っていました。それにケニアの公園では柵があったり不自然な点もありました。また一つの国立公園がタンザニアにある公園と比べると小さいんです。有名なセレンゲティ国立公園は四国よりも大きいんですよ。そんな広大なサファリが舞台ですから、動物だけでなく、360度広がっている草原も目にすることができます。さらに北サーキットだけでも世界遺産が2つあるし、動物の楽園であるンゴロンゴロ保全地域、広大なサバンナが広がる、ヌーの大移動の舞台にもなるセレンゲティ国立公園、バオバブの木で有名なタランギレ国立公園、木登りライオンで有名なマニヤラ湖国立公園、そして、アフリカの名峰� �リマンジャロなど、それぞれが近場に集まっているんです。ケニアでは1つ1つの公園が離れていて移動も大変なので、タンザニアはその点でも観光にはとても良い環境にあるんです。

雨季の緑豊かなセレンゲティ国立公園


セレンゲティ国立公園の美しい夕日

-今回、特別に大串さんにサファリをご案内いただきましたが、本当に動物が好きなんだなっていうことが伝わってきました。

大串さん:見ているだけですごく幸せな気持ちになってきます。動物はどうしてこう動くんだろうって考えるのが大好きなんです。動物たちを一日中ぼーっとしながら眺めていても決して飽きることはありません。
くじけそうになったり、心が折れそうになったりしたときに、厳しい自然界に命がけで必死に生きている動物を見ていると、自分が悩んでいたことが小さく思えてきます。

-大串さんは自分の夢を実現されたわけですが、夢に向かって突き進むそのすごい精神力はどこから来るんでしょうか?

大串さん:小さい頃から父からとにかく夢を持てと言われてきました。夢のない人生は人生じゃないということを、いつも言われてきました。だからそれが自分の中にいつもありました。最初にタンザニアでサファリの世界を目にしたときには頑張って良かったなと本当に思えました。それまで挫折して獣医になれなかったり、ニジェールで死ぬ思いをしたのは、ここに来るための道だったんだと思えました。

-大串さんのお話を聞いていると、夢を持つ、自分の夢に向かって頑張るっていうことは本当に大切だなって実感させられます。

大串さん:でも、以前とは少し考え方が変わってきました。実はニジェールにいた時に子供たちに「あなたたちの夢はなんですか?」って質問したことがあります。彼ら、何と答えたと思います?

厳しい環境の中でも明るく元気に生きるニジェールの子供たち

-お腹いっぱい食べたい・・・とか?

大串さん:いいえ。逆に「夢って何ですか?」って聞かれてしまったんです。これにはガーンと頭を殴られてしまったような衝撃を受けました。すごくショックでした。考えてみると夢って将来があるから抱けるものなんですよ。明日、そして1週間後、1年後自分が生きているという前提から考えるものなんですよ。ニジェールでは明日自分が生きているかどうかも分からない。そんな状況だから夢なんて考えられないんですよ。今を一生懸命生きるしかない。子供たちの「夢って何?」という一言で自分がどれだけ恵まれた環境に生きてきたかということを思い知らされました。夢を持てることがどんなに幸せなことなのかなんて、それまで考えもしませんでした。だから毎日を必死で生きている動物を見ていると、その時のこと� ��思い出します。

何を考えているのですか?光(ひかり)くん


入浴中の泉(オアシス)くん

それと、アフリカに来て死というものを身近に考えるようになりました。上の子を出産する時も子供と私は死にかけました。なんとか二人とも生きることができたのですが、子育てや衛生観念に関しても日本人とタンザニア人ではまったく違い、それからも度々子供が死にかけたり、危ない目にあったりして、子供の命の危険を感じることが多々ありました。だから、子供を守るためにここの世界とここの人たちと毎日のように喧嘩しながら生きていました。そんな日々の中、毎夜、子供の寝顔を見ながら「今日、この子が生きていてくれてありがとうございます」って感謝していました。死なないで良かったって。だからいつも死と隣り合わせであること、死というものを実感しながら生きてきました。それが今の自分のパワーになっ� ��いるのだと思っています。日本にいると明日生きているのが当たり前で、1日をムダにしても明日があるからいいや、明日やればいいやという気持ちになりますが、明日死ぬかもしれないと思っていると、一生懸命生きようとするし、時間を無駄にしないようになります。家族との対応に関してもそうです。主人と喧嘩したり、子供たちを怒ったりしたあと、絶対にそのまま別れないようにしてきました。お互い嫌な気持ちで離れて、それがもしかしたら最後になるかも知れないからです。

自宅のガードマンとして雇っているマサイ族の男性と光くん


光くんと泉くん(自宅にて)

-これからの大串さんの夢は何ですか?

大串さん:もちろん夢を持つことは大切だし、自分を前に進めてくれるけど、それは家族といっしょにいる平穏さとか身体が健康であることがベースになっているものだと考えるようにもなりました。だから今の夢は家族全員が健康で家族と幸せな生活を送り続けることです。

-アフリカは大串さんにいろんなことを教えてくれたということですね?

大串さん:本当にそう思います。野生動物があれほどきれいに見えるのはいつも死と向かい合って懸命に生きているからだと思うんです。それを教えてくれたアフリカに感謝していますし、ここに来ることができて本当に良かったと心の底から実感しています。

-たくさんのお話を聞かせていただき、ありがとうございました。これからもファイブスタークラブのお客様はじめ、日本からのお客様に素晴らしい体験をしていただけるよう手助けしてください。よろしくお願いします。


Interviewer : 本山 泰久(ファイブスタークラブ)
Writer : 亀崎 恒(フリーライター)
Editor : 森 裕(ファイブスタークラブ)

大串さんファミリーと弊社本山



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1 件のコメント:

  1. Sam様

    突然のコメント申し訳ございません。

    私テレビ東京の「世界なぜそこに?日本人」という番組を制作しております。
    株式会社ホールマンの鵜木と申します。

    過去に当番組の名前で同じような問い合わせがありましたでしょうか?
    重複していましたら申し訳ございません。

    当番組で世界各地にいる日本人を取材しておりまして、このブログに登場される大串安子様をご紹介いただけないでしょうか?

    当番組の概要といたしまして世界で活躍する知られざる日本人を取材、紹介し、ナゼそこで働くのか、ナゼそこに住み続けるのかという理由を波乱万丈な人生ドラマとともに紐解いていくドキュメントバラエティ番組となっています。

    毎週放送しているため複数名ご紹介していただけると幸いです。

    お忙しい所恐縮ですが、ご返信をいただけると幸いです。
    一方的なお願いで申し訳ないのですがよろしくお願い致します。

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